1965年(昭和40年)

監 督 部 長 副部長  池ノ迫 孝幸 ・今井 義雄 ・谷川 勝則 ・谷本 茂 ・中 義彦
 狭間 幸男 ・林 利秋 ・保手浜 敏彦
平田 博士  安長 照法 木下 和明

軟式野球部もなく、女子のソフトボール部はあったが、グランドが現在の三分の二であり、硬式野球部を作ることには無理があった。
広島大学で硬式野球部員であった平田先生が赴任され、「野球部を作ろう」と生徒たちに呼びかけた。6月の生徒総会で「野球部同好会」として、承認される。
野球部長には、生徒指導部長の安長先生(国語の先生でお寺の和尚さん)、コーチ(副部長)に木下先生(電気科)と決まる。

年間予算2万円   ヘルメット2ケ(2,800) キャッチ用マスク(1,400) プロテクター(3,200)   フトンベース(2,600)
           練習ボール1打(4,200) 竹バット2本(2,600)    ファーストミット(3,500)      300円赤字
(多分、平田先生が・・・)

8月  初の練習試合を因島高校のグランドで行ない、サヨナラ・ホームランで、4:3で初勝利を飾る。

谷川君が新聞部発行の号外を大切に保管してくれていました。
詳しいスコアブックは残っていませんが、あの時の様子が思い出されます。
少し読みにくいので、ここに再記載しました。

      幸先よし野球班 (同好会であるので、残念ながら野球部ではない)
   初戦(対因島高)にサヨナラ勝ち
 

 野球班がボールを握ってから二ヶ月、去る八月二十日、因島高校と初の試合を行った。前半、上気して守備についた
本校を因島が急激した。
 初回二つのエラーで一点。しかしマウンドの谷本は冷静なピッチングで力投を続ける。 二回に松原のタイムリーで一度
は同点に追いついた本校は懸命に追いかける。
 試合の第一の山場は七回にやってきた。先頭の福田が四球、谷本が右前へはじき返して無死一二塁のチャンス。
代打左の茶木の大きな右犠飛でランナーが進塁一死二三塁、代打の味木がさんざんねばる。 ベンチへ呼ばれて気をほ
ぐしたあとの九球目をみごとにとらえ左中間を破る二塁打、逆転に成功した。
 しかし因島も最終回、やや固くなった谷本を攻め、二つの四球にワイルドピッチ、一安打で一点を返し同点。
試合は最後の土壇場までもちこまれた。
 その裏一死後、七回の殊勲者味木が今度はレフト頭上に高々と大アーチを描いた。
総立ちのベンチに迎えられホームイン。サヨナラ本塁打でみごとに初戦を飾った。
 初試合のため、無駄な点を与えはしたが、攻撃は集中打が出る理想的な攻めであった。


             硬式野球部の創部に関する思い出 (木下 和明)

 県教委から「本郷工業高等学校に勤めなさい」と言われ、「本郷はどこにあるのか?」と質問。「山陽本線の三原の一つ手前にある。」と聞いた。山陽本線の駅のそばならば、そんなに田舎ではないだろうと思い、本郷工業に赴任する。

 下宿先を決めなければいけないので、3月はじめに本郷に行ってみることにした。仏通寺には行ったことがあったが、本郷は初めてである。

 広島駅に着くと、「三原経由糸崎行き」という蒸気機関車(電車ではない)が待機していた。「ラッキー」とその列車に飛び乗った。しかし、どうもおかしい。海岸べりを進むのだ。(その頃は、瀬野川駅で蒸気機関車を後ろに連結して、八本松駅まの坂道をゆっくり進んだものです)
ようやく気がつく、「この列車は、呉線経由糸崎行きなんだ!」と。 しかたがない、右手に瀬戸内海を見ながら、三原駅を目指す。
それにしても時間がかかる。何せ単線なので、ちょっと進むと対向車を待つ。

 「三原・三原」やっと三原駅に到着。 三原駅も初めてなので、外に出てみる。 なんとそこには「本郷行き」のバスが止まっているではないか。
「ラッキー」乗客はたったの二人、バスはすぐに出発した。三原市の町並みをすぎ、左手に水がきれいな大きな川(沼田川)を見る。
本来自分が乗ってくるべき山陽本線が右側に見える。

 そのうちに、左右とも田んぼや畑が見えてきた。「おいおい、工業高校があるとこだぞ。工業団地はどこにあるのだ!」 バスは、ますます人家のないところに入っていく。
 「お客さん、どこまで行くのですか?」運転手の声にドキリ。「本郷までですが」(声が上ずっているのが自分でわかる)

 「お客さん、たしかにこのバスは本郷まで行きますが、仏通寺経由の本郷行きですよ」(その時には、この意味がよくわからなかったが・・・)

 本郷工業高校にやっと到着。校門を入ると正面に木造2階建ての建物がある。そのなかに、事務室、校長室・保健室などがあった。
下宿先は、保健の永井先生の世話で三次通りの宮谷電気商の2階に決定した。(「創部の思い出」の序文が以外に長くなりました。申し訳ありません)

 本郷に初めて教師として赴任したのは7人(十楽・景山・小山・佐々木・渡辺・出来・木下)。 教員全体の平均年齢が29歳と非常に若い。
今年転勤した中に、広島大学で硬式野球部の捕手として活躍された平田先生(国語)がいた。 平田先生は賀茂北高校からの転勤で、「硬式野球部を作ろう!」と生徒に呼びかける。

 2年生を中心に野球部創部の機運が盛り上がる。 濱咲修二君は、鈴木校長が列車に乗ると、校長の前に座り「本郷に硬式野球部を作ってほしい。」と強く話しかけた。
その結果、6月の生徒総会、職員会議で「部長には生徒指導部長の安長、監督には平田、副部長兼コーチとして木下の3人が顧問として位置付き、1年間は同好会として活動する。実績を見てクラブに昇格させる。」ことが認められた。

 同好会として出発はしたが、グランドは今の3分の2しかなく、実績のあるサッカー部(顧問佐々木)や陸上部(顧問久保岡)が練習するなかで、土・日曜日を中心に練習がはじまった。

 生徒会からの予算は2万円で、バットとボールを購入したら終わってしまった。あとは、個人で買うしかない。
ソフトボール部のネットを借りて捕手の後ろに置く。ホームベースの位置は、現在のライト側(バスケットコート側)であり、山陽本線に向かって打っていた。

 3年生もたくさんの生徒が入部を希望し、部員はたくさんいたが、練習する場所と道具がなく、しかもグランドが田んぼを埋め立てており、雨が降ると2〜3日グランドでは練習できない状況であった。そのため、雨の翌日にはスコップで大きな穴を開け、そこに溜まった水をみんなで汲み出したものである。

 グランドが使えないときには、仏通寺まで(片道8Km)よく駆けったものである。その時には、安長部長が自転車で一緒に付いてきてくださり、到着するとポケットからアメを取り出して一人一人に渡されていたことを思い出す。

 3年生は公式戦に出ることはできないが、練習試合をぜひやってみたいと生徒たちから要望があり、近隣の高校に電話をするがすべて断られる。
少し遠くなるが、因島高校に電話すると「いいですよ。やりましょう。」と快諾、部員一同喜んだものです。今のように車社会でもなく橋もなかったので、まず尾道駅まで列車で行き尾道港より船に乗っていきました。

 広いグランドとさよならホームラン(味木文司君・現OB会長)で勝った事が強く印象に残っています。41年に野球部として認められ、その年の選手権大会(夏の大会)から現在まで休むことなく参加しています。

 創部に力を貸して下さいました安長先生、初代監督として野球部の基礎を作ってくださいました平田先生が若くして病死されたことは非常に残念です。また、何人かの野球部卒業生が亡くなっています。謹んでご冥福をお祈りいたします。



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