1966年(昭和41年)

監 督 部 長 副部長  味木 文司 ・市川 洋司 ・宇城 和幸 ・小坂 正美 ・佐々木 哲
 為重 和人 ・道見 睦博 ・戸田 邦昭 ・中山 則良 ・ 西村 力
 濱咲 修二 ・福田 正治 ・松原 明人 ・藪影 孝典 ・吉川 隆
平田 博士  安長 照法 木下 和明

練習試合(春から夏まで)

3−12 忠海高校  12−6 尾道北  5−2 三原  6−5 世羅

第48回全国高等学校野球選手権広島大会(夏の大会に初出場) 

本郷工高 0−9 三次高校


後の建物は、美術室です。 機械科実習室が後に見えます。
ベースはソフトボール用の布ベースです みんなの真剣な眼差しが懐かしい
運動会(体育祭)でのクラブ対抗リレー競技です。宇城君や福田君の姿が見えます。


古い新聞記事のため、変色して読めないかもしれませんが・・・・


  夢は甲子園へ 工2期 味木 文司  (校内新聞に記載されたものです。)

 入学した頃は、3年生に普通科・農業科・2年1年に、機械科・電気科・工業家庭科と、バラエティーに富んでいました。また、工業高校といっても現在のように、立派な設備も整っていなかったように思います。

 クラブ活動も陸上部が主であったと思います。1年生の後半頃だったと思います。「野球部を作ろう」と話が盛り上がり、段々とエスカレートして、紆余屈折の末に野球部の誕生です。

 出来たと言っても、グランドも設備もなく、機械科の先生が作られたバッティングゲージのペンキ塗りをしたのを昨日のように思い出します。又、グランドも狭く他のクラブとの交替使用で、1週間に2日位しか使用できませんでした。その日以外は、バットの素振り、仏通寺往復ランニング、橘神社の一人背負っての石段登り、沼田川の川原でのランニング、陸上部か野球部かと走る毎日でした。

 グランド使用日が雨で水溜りがある時、昼休みにバケツで水を替えたり、雨の日は、軟式ボールを打ったこともありました。みんな本当に野球が好きだったんだなあ。

 何と言っても今では考えられないような金額の部費でした。今日のように、金属バットは使用できませんでした。バットが折れるたびに部長、監督さんも、大変だったろうと思います。

 3年生の時、夏の高校野球広島大会へ、本郷工高「初出場」です。グランドは広島市民球場、第1試合。遠距離通学者は部長の家に泊まっても市民球場乗り込みです。

 球場に着いて、ユニホームを着替えるか、着替えないうちに場内アナウンス「本郷工業高校シートノックを始めてください。」

 1回戦の相手は、三次高校。アッという間に、試合が終わっていました。結果は、コールド負け。

 一人になると、「ああ、これですべて終わったのだ」と虚無感に包まれる。

 でも、今思い出すと、悔いのない、すばらしい高校生活でした。

 走馬灯のように、駆けめぐる在学中の思い出を、ペンの走るがままに記してまいりました。

 最後に、皆様の今後のより一層のご活躍をお祈りいたします。


                         (注釈:昭和57年の校内新聞に卒業生として寄稿されたものです。)


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