西山泰先生・追悼展示会

2002年12月25日付けの中国新聞より


  奥様より

 小学生の頃、目立ちたがりやで、うそをついて収拾がつかなくなり、日の暮れた山に入り、大勢の人に探され、わざと怪我をしたようなやんちゃでした。

 中学校では3年間、友人の車椅子を押し、卒業時に校長先生が表彰状を出されたそうですが、おかしいと返したそうです。

 高校生になると勉学に目覚め、生真面目で3年間、坊主頭で通しました。

 大学時代は、ゼミにバイトに精を出しながら、いろんな世話役になり、教職を目指しました。

 教員になってからは、何をしても一生懸命で、手を抜くことができず、見ていてこちらが辛くなるときもありました。
 でも、どんな時にも笑顔で、生徒のみなさんから「ニコちゃん」と呼ばれたこともありました。

 自然を愛し、芸術を愛し、そして何より人を愛して、精一杯走り抜けた一生でした。

 このたび生徒会が中心となり、在校生のみなさんが夫の追悼展示会を開催していただくことになりました。

 本日はお忙しい中、ご来臨賜りましてまことにありがとうございました。

西山 美智子

年末で忙しい中、たくさんの人が訪れてくださった。彼の人脈の広さに感服!

西 山 先 生 の 経 歴

1953年11月11日 賀茂郡河内町中河内に生まれる。
1972年 3月 本郷工業高校電気科 卒業
1976年 3月 広島電機大学(現国際学院大学)電気工学科 卒業
1976年 4月 本郷工業高校電気科 勤務 卓球部顧問・中国大会出場を果たす。
1977年 4月 東広島市西条中学 勤務
1978年 4月 原養護学校 勤務  生徒・教員で音楽活動「キャラバン」を結成。ドラムを担当し、コンサート・レコーディングに奮闘。障害者年にはNHK教育テレビ「広がる教室」に出演する。
1982年 4月 本郷工業高校電気科 勤務 ホームルーム担任・卓球部顧問・障解研顧問など歴任
2001年12月30日 48歳の人生に幕を閉じる
劇 団 の 世 界
ドラムを叩くと裕次郎以上、「昴」を歌えば谷村新司以上、何事にもとことんがんばった西山先生。近所の老若男女を集め、本郷劇団「やぶれかぶれ」を結成。団員30名をまとめる団長でもあり、脚本・演出も担当。年一回「敬老の日」に中央公民館で上演。また、本郷工業高校の学園祭(紫紺祭)では、担任クラスで劇を演じ、教職員をオダテテ演劇を指導。亡くなられた年の紫紺祭ではPTAに働きかけ、「本郷昔話」を演出・指導する。
第1回 「三匹の仕掛人」
第2回 「本郷の星」
第3回 「家族」
第4回 「本郷の次郎長」
第5回 「知恵が救った村の危機」
第6回 「ごめんなさい」
第7回 「昔も今も」
第8回 「帰ってきた仕掛人」
第9回 「命」(脚本・演出は西山美智子さん)

水 墨 画 の 世 界
高校生のとき、油絵を描いたところ、一教員より「よくない」と言われ、絵は下手だと思っていた。その後、美術部の親友(本岡君)に「うまい、絵を描け」と言われ、独学で油絵を描きはじめる。
描いた絵はほとんど知人、友人に進呈。河内駅前の喫茶店に風景画の油絵がある。
1998年、突然水墨画に関心を持ち、テレビで水墨画の勉強を始める。その後、三原市の水墨画教室に通い始め「玄画会」に入る。
1998年 墨粋社展            新 人 賞
玄画展                奨 励 賞
1999年 玄画展                努 力 賞
全国水墨画秀作展(東京)        入   選
全国公募南九州水墨画展(鹿児島) 入   選
総合水墨画展(東京)                秀 作・佳 作
国画院展            入選 入   選 
2000年 全国水墨画秀作展(東京)        入   選
総合水墨画展(東京)            佳   作


「教え子、同僚、そして良き友をしのぶ」

「先生,腰が曲がってるよ!シャンと伸ばして、顔をあげて!」彼の声が聞こえてくるようである。

3年間、高校教師として彼を教え、本郷工業高校に教師として赴任してからは同僚として一緒に教育活動やクラブ活動に励み、そして最近は一杯飲みながら良き友として人生を語った西山泰君を振り返ってみたい。

高校時代は、各地で学級崩壊、校内暴力が起こり本校でも混乱期であったが、彼は頑なに坊主頭で3年間を過ごし、卓球部員として部活動に明け暮れていたことを思い出す。

彼は、高校の早い時期から高校教師を目指しており、大学進学後教職の単位を修得、広島県の教員採用試験に合格して、初の任地は原養護学校であった。その後本郷工業高校に転勤してきた。

母校の教師になってまず彼が取り組んだのは,卓球部を強くすることであった。そのために卓球マシンを自作し、強豪の福山電波高校(現近大福山高校)に再三練習試合を申し込み、「また負けたんよ!くやしい〜」と良く聞いたものである。

野球部顧問であった私と彼、それにバレー部の顧問が練習終了後、近所のカープラーメンや天一食堂に直行したものだ。冬はおでんを夏には冷奴をつまみに、一杯飲みながら「どうしたらクラブが強くなるのか?」「授業を聞いてくれない生徒にはどうしたら良いのか?」・・・・など、真剣に話し合ったものだ。

給料日に2万何がしの請求書に、ビックリしたことが良き思い出として残っている。(当時の給料は10万円なかったと記憶している。)

彼は1953年の蛇年の生まれである。私は一回り上の同じ蛇年、何事にも執念深いところはそっくりである。

そっくりと言えばこんなことがあった。ある時三原駅前の飲み屋で一杯やっていると、そこの女将さんが「あんたら〜兄弟でしょう。仲がいいのね〜」「なんして兄弟じゃとわかるん?」「直ぐ分かるわ!鼻がそっくりじゃもん」

彼は音楽の才能があった。原養護学校では生徒や先生方を焚きつけ?「キャラバン」という楽団を結成し、ドラムを叩いていた。

原養護学校の生徒は、重度の障害を持っており隣接の病院から学校に通ってくる。「先生、この子は筋ジストロフィーで、段々と筋肉がやせ、力がなくなっていくんよ。あと何年の命かねー。」何とか子どもたちに生きてきた証を残してやりたいと、レコードを作り、NHKの教育テレビ「広がる教室」に出演した。

今から考えると残念でならないことがある。それは、紫紺際に「キャラバン」を招待すべく取り組んだが、実現できなかったことである。理由は、管理職の「事故がおきたら誰が責任を持つのですか?」彼は「私が責任を持ちます。」と言い張ったがダメであった。

蛇足ではあるが、日本の教育をダメにしている一つにこの責任問題がある。

「放課後子どもが怪我をしたらどうするのですか?」この論で、小中学校の放課後のグランドはさびしい限り。

「プールで泳いでいて、おぼれたら・・・・」これで、夏休みの楽しかったプールでの思い出がなくなった。

「ケガをしたら・・・」これで、クラス仲間とのキャンプや登山が出来なくなり、運動会で騎馬戦や棒上旗奪いがプログラムから消えて行ったのです。

管理職は責任を取るためにいるのです。「私がすべての責任を持ちます。やってください。」と何故言えないのであろうか?

彼に歌を唄わせば抜群であった。「昴」を歌えば谷村新治より上手かった。忘年会やPTAとの懇親会、クラブでのOB会、電気科の先生方との宴会などでよく唄ったのが三波春夫の「俵星玄蕃」である。

「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わず、はっと立ち上がり耳をすませて太鼓を数え、おお、まさしく赤穂浪士の討ち入りじゃ、助太刀するはこの時ぞ、もしやその中に、昼間(誰かが止めてくれないと・・・)」

彼は歌う前になるとどこからか箒を探してくるのです。そして私に「先生、やりますよ!準備してください。」(「なにを?」などと質問など受け付けない)

手ぬぐいと箒を持って舞台に寝っころぶのです。まさしくパブロフの条件反射!

追伸:彼の「追悼展示会」に「俵星玄蕃」のカセットテープをわざわざ持ってきてくれた先生がいました。「西山先生が良く唄っていた歌なので、会場に流して下さい。」せっかく持ってきて下さったので、歌を流しましたが、受付をしていて自然に体が動くのには困ったものです。(2回ほどかけましたが、私の独断で中止命令を出しました。)

彼が水墨画を描いているのを知ったのは、最近である。それもそのはず、彼が水墨画を始めたのは1998年である。始めた頃だったと思うが、彼の家に行ったとき、ふすまに墨で松らしき?絵が描かれており、枝が変なところから出ていたので、「この絵はなんな〜」「失敗しました。」今でも残っています。

ふすま1枚を無駄にする彼、それを温かく許す奥さん、どちらもすばらしい!

昨年の紫紺祭に彼より「先生にとって今年が最後の紫紺祭じゃね〜。先生方で劇をしますから、出てくださいよ。」イヤとは言えない。しばらくすると台本が渡された。「何でも鑑定団」をもとにした劇である。

私の役はおやじ、東京に出ると言う息子に「金に困ることがあったら、この先祖伝来の巻物を売りなさい。家の1軒や2軒は買えるはずだ。」

息子が喜んで出て行く。暗転。東京での生活、失業、「なんでも鑑定団」に出演、前の出演者の「観音さんの絵」が高額に判定、いよいよ息子が登場、「石像」の巻物を出す。結局「五円」と判定。という劇である。電気による表示装置を作り、劇を演出、大成功で終わる。

この時使った、二つ巻物の掛け軸は泰山作である。追悼展示会に展示され、懐かしく思った。

今回「追悼展示会」を開き、予想をはるかにオーバーする人が来展くださり、今さらながら彼の偉大さ、交友関係の広さ、そして人間性を再認識しました。



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