犬も歩けば棒に当たる
江戸時代の「いろはカルタ」の第一句が、「犬も歩けば棒に当たる」です。
大阪では、「一寸先は闇」だったそうです。(関東と関西の違いがおもしろい)
さて、この「犬も歩けば棒に当たる」の意味は、良いことなのか?悪いことなのか?
このことわざの意味は、時代によって解釈が変わってきているようです。
はじめは、犬でもフラフラとあちこちに歩き回ると人間の振り回す棒に当たってたたかれる。
人間も、でしゃばってあちこちに首をつっこむと思いもかけない災難にあいかねないから気をつけよう!という意味だったそうです。
それが現在では、じっとして家の中にくすぶっているばかりだと良いこともないが、ちょっと積極的に出かけていけば、思いもかけない幸運に会うかもしれない。
何もせずにじっとしているより、なんでもいいからやって見ろ!という意味で使われるようになりました。
よけいなことをしないで黙って生きていくほうが幸せという過去の考え方から、積極的に行動したほうが幸せになるという現代的な考え方に日本人も変わってきたようです。
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枯れ木も山の賑(にぎ)わい
「木下君と渡辺さんの婚約パーティーには、友人たちばかりでなく恩師や先輩方も多数出席して、“枯れ木に花のにぎわい”だった」という言い方には、2つのミスを犯しています。
そもそも「枯れ木に花のにぎわい」という言葉はない。
「にぎわい」ということを言いたいのなら、「枯れ木も花のにぎわい」が正解です。正しい使い方、解釈を身につけて下さい。
これは、枯れ木でも山の景色をにぎやかにするのに役立つという意味から、「つまらないものでも、ないよりはまし」というときに使うことわざなのです。
恩師に向かって「先生が来て下さって、枯れ木も花のにぎわいですよ」などといったら、短気な先生ならそのまま席を立って帰られます。
「枯れ木も花のにぎわい」は、自分を謙遜していう言葉なのです。間違っても他人に対して、ましてや目上の人には使わないように。
補足: 「枯れ木に花が咲く」という言葉もあります。これは、衰えたものが再び栄えることや、ありえないことが実現する意味で使います。
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情けは人の為ならず
「“情けは人のためならず”って言うだろう。だからオレは心を鬼にして手助けはしないよ。悪いなあ、オレもつらいんだよ。でも自分のためだと思ってがんばってくれよ。」
などと、トンチンカンなお説教をしている人がいますが、それは間違いです。
人のために何かをするなんて嫌なことと、自分の度量が狭いのを、ことわざのせいにしてはいけません。
正しい解釈は、「人に情けをかけておけば、その人のためというより、きっといつかめぐりめぐって自分によい報いをもたらせてくれる」という意味なのです。
といっても、最初からお返しを期待してはいけません。人に親切にするのは、たんに自分がそうしたいからすべきことなのです。
自分が幸せになるためには、周りの人も幸せになってほしいというのは、誰もが持っている感情です。
落ち込んでいる友人に話し掛ける、休んだ友達にノートを見せてあげるなど、自分ができることを相手に負担にならない程度にさりげなくするのが、本当の親切、本当の友情ではないだろうか。
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