1983年(昭和58年)

監 督 部 長 副部長  稲本 勝司  ・内田 伊佐男  ・大田 茂樹  ・河知 和見  ・後藤 誠治
 白須 浩二  ・峠 雅美      ・藤井 義規  ・藤川 明男  ・増田 浩一
 升広 修治  ・森島 康克    ・森本 正輝
松本 正二 木下 和明 吉川 正治

 3月24日〜26日、四国遠征を行う。
 愛媛県越智郡弓削町の国立弓削商船高等専門学校で1泊2日の合宿を行う。
 


    戦 績(1982年8月から1983年7月まで)

 練習試合(夏から秋まで) 2−4 盈 進 2−2 盈 進 3−4 三 原 1−2 尾 道
3−4 賀 茂 4−3 尾道北 15−2 福山葦陽 5−3 福山葦陽
0−8 三 次 5−10 吉 田 3−5 尾道東 12−0 尾道工業
10−5 呉高専 11−11 呉商業 2−8 忠 海 0−4 尾道東
1−1 尾 道 8−9 尾 道 2−5 大 和 8−0 大 和
 秋季東部地区大会 1−3 府中東 2−1 福山工業 8−9 沼 南 0−10 福山工業
 尾三地区 1年生大会 5−0 三 原 1−8 大 崎
 練習試合(春から夏まで) 8−5 琴 平 5−4 坂出商業 9−10 多度津工業 6−5 三豊工業
5−4 忠 海 2−3 瀬戸内 6−5 瀬戸内 6−0 電大付
5−3 賀 茂 4−2 賀 茂 19−2 三 原 2−0 弓 削
1−5 尾道東 9−5 戸手商業 13−1 葦 陽 3−1 忠 海
1−6 呉 港 11−10 三 原 13−5 福 山 1−0 沼 南
1−0 弓 削 8−2 弓 削 6−4 弓 削
 春季東部地区大会 1−3 尾 道 1−4 松 永 2−8 大 崎
 尾三地区 総合体育大会 17−0 久 井 2−8 因 島
 第65回全国高等学校野球選手権広島大会 6−7 尾 道 (2回戦)

雑誌「高校野球」(報知新聞出版)に載った記事

            硬式野球部 (校内新聞の紹介記事)

 昭和40年、単科の工業高等学校となった時、生徒の中より野球部を作ってほしいという声が出、鈴木昌信校長及び教職員の理解のもと、野球部同好会として発足した。
 
 顧問として、当時生活指導部長の安長照法(昭和53年病死)・平田博士(現賀茂高校勤務 注1)・木下和明(現野球部長)の3名があたった。

 年間予算は2万円で、グランドも狭く、練習日も水・土・日の3日間に制限されており、雨が降れば、グランド整備に多くの時間が費やされた。
この様に、十分練習が出来なかったが、初代福田正治主将を中心に、部員22名は青春の汗をグランドに流した。
 その年8月、3年生にとって初めてで最後の試合が因島高校で行われ、味木文司(現野球部OB会会長)のサヨナラ・ホームランにより3対2で勝ち、3年生8名に花をそえた。

 翌年の生徒総会で、正式に部として認められ、すぐに高校野球連盟に加盟し、夏の大会に出場した。しかし練習不足はいかんともしがたく、9対0で三次高校に負けた。

 その後、運動場が拡張され、又機械科の協力でバッティングゲージやボールネットが作られ、徐々に力をつけてきた。昭和43年、春の県大会では、地区トーナメントを勝ち抜き、県大会に出場し、初のベスト8に入った。

 その後、実力もつき、毎年夏の大会では「本郷は、伝統はなくても例年まとまった高校野球らしいチームを作る。」と評され、練習にさらに励みがかかった。

 昭和47年より藤谷卓巳監督(現三次高校野球部監督注2)が指導、その年の夏の大会でベスト8に入った。

 昭和51年は森田美喜文監督(現忠海小学校勤務注3)、そして昭和52年より現松本正二監督(本校野球部OB注4)が指導している。

 松本監督の指導により、昭和54年夏の大会では、尾道商業を破り、ベスト8、57年尾三地区大会で優勝、58年の1年生大会準優勝と近年とみに力をつけてきている。

 現野球部は部員数30名で、「規律・礼儀・節度」を部活動の柱として、厳しい練習に耐えている。

 注釈 注1 平田先生は賀茂高校から広島市内の皆実高校に転勤されました。残念ながら平成6年に病死されました。
     注2 藤谷先生は現在、柘植卓己と名前が変わり、三次高校の後、祇園北高校の監督として活躍されました。
         2002年の人事で廿日市西高校の教頭として元気に頑張っておられます。   
     注3 森田先生は現在、豊浜町立豊島小学校の校長先生です。    
     注4 松本先生は、2002年の人事異動により福山工業高校に転勤になりました。            2002年現在


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